今後の展開に備えて一応見ておきました。
おやっさん曰く、「目元の冷たさと優しさ」を隠すのが帽子の役割とのことですが、そのどちらもないと言われた昔の翔太郎と今の翔太郎の違いは、他人の話を聞かずに勝手な行動をとる=人を思いやることができないかどうかにあるのでしょう。
人の判断や考えを軽視して自分勝手な考えで動くのは優しさではなく、単なる傲慢でしかない。かといって、誰かの教えや判断にベッタリ甘えて、自分はそれに従うだけなのもまた違う。
重要なのは、誰かの話に耳を傾けた上で、自分で考えて決断すること。
だからこそ、ダミーおやっさんを通じて、翔太郎が「本当の意味での決断」を実行するのも悪くなかったし(明らかに悪い奴の味方をするダミーおやっさんに真意を訪ねる描写が不足していたのはやや残念)、大切な存在の死によるショックの大きさと、そこから自分の失敗と向き合い、次につながる答えを出した誠意も伝わりました。
一方で、フィリップの言う「Wになった理由」が、二人でそれぞれの罪を償うことに集約されていたのですが、この辺りはちょっと不安要素。
罪を償う存在が、その為に他人の助力を必要とするのは、贖罪への誠意の部分として違和感が付きまとう所で、物語がそれを否定せずに進行してしまうと、どうしてもなあなあな印象のまま作品が終わってしまうような。