しがない感想置き場

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暴太郎戦隊ドンブラザーズ ドン49話

ドン49話「さいごのおもいで」

 

今回を入れて2話で終幕ということで、各所で登場人物が忙しく動き回っており、全員分言及していたら体力が持たないので、取り合えず今回は書きたいところだけかいつまんでみました。ヘタレでごめんね。

 

あれだけ荒れ狂っていたのが嘘のように、普段の「イイヒト」っぷりを取り戻している雉野。みほが正体不明の化け物であるという事実から、良妻を失った喪失感ではなく、「何も手に入れていなかった」という自身の不甲斐なさを突き付けられている状態で、仕事を辞め、住まいを引き払うことで、何もない自分というものを可能な限り見ないようにしていたのかもしれません。ドン39話の感想でも、現実から逃げることで精神を保ってきた雉野のある種の「強さ」について書きましたが、今回のもそれと同じく、どんどんおかしくなっていく自分に自覚的だからこそ、犬塚達への態度を改め、「普通の自分」に戻して自分と言うものを保つことが出来ている。

タロウの誕生日を笑顔で祝ったのも、雉野にとっては人生の再出発をするための儀式なのかもしれません。引っ越しても会社を辞めても、ドンブラザーズは引退できませんし、それならそこでは精一杯笑顔を作って「普通」でいようと。雉野がタロウの「本心」を皆に告げる役目を担ったのも、少なからずそういう側面はあったのかなと。

自分という「武器」がないので、社会の隅っこでなるべく傷つかないように面倒ごとを避けておどおどと身をかがめながら歩く。他者に対しても愛想を振りまき、でもそれは自分自身が笑顔の仮面を被ることで、自分の劣等感を誤魔化す為の手段でしかない。故にその根っこには絶えず優秀な他者に対する羨望と、自分を脅かす者への強い憎しみがあり、自分の中のそういった薄暗い気持ちに負けそうになるからこそ、他者からの承認や絆によって自分を正当化したいから、安易な気持ちで他人と繋がろうとし、一たび事が起これば、自分の手で簡単にそれを壊してしまう。

「自分」というものを持たないからこそ、社会が求める自分像をなんとかして取り繕い、そんな誰の顔かも分からない、他人のものかもしれない笑顔を浮かべる人生。そんな人生に違和感を覚えているのはほかならぬ自分だからこそ、人は今の自分ではない自分になる為に「夢」を抱き、その過程で挫折して敵わぬ「欲望」に翻弄されて、時に他者を害する鬼になる。タロウが言う「普通の奴が一番怖い」というのは、そういうことなのかもしれません。

 

ついに執り行われたタロウの誕生日パーティ。予告の時点では「あ、お約束イベントや。」と割と淡泊な気持ちで構えていたのですが、実際の放送を観ると、見事に涙腺が緩んでしまいました。歳のせいということもあるかもしれませんが、積み上げてきた桃井タロウというキャラクター像とお供達の関係の集大成というべきシーンであることは確かで、またそれを表現するにあたって、タロウを演じる樋口さんが良い表情を作ってくれたんですよね。子供の頃に出来なかった体験を大人になってやっていると言った感じの、素朴な笑顔というか。売れてほしいなあこの役者さん。

 

振り返ってみると、桃井タロウと言う男は、幸せを学びたいと言いながら、その実普通の人間になりたかったのかもしれませんね。

ドン6話で「得意なことが無い」と嘆く雉野に「似ているな」と返したタロウ。得意なこと」というのは、他人から見て優れた何かではなく、自分にとってこれだと思える自己表現の為の何かであり、タロウはなんでも出来るが故に、そういった強く思い入れを抱かせる何かを持ち得ない。ドン22話で出てきた人生の成功者が、「何もかもつまらん」と言って身の回りの物を否定した時、「それはあんたがつまらない人間だからだ」と返したのですが、そんなタロウも彼と同じく何でもできるからこそ時に苦悩し、時に涙し、その結果掴んだ何かだからこそ、他人からそれを否定されても、「俺にはこれがある」と主張できる何かを持てない立場であって、ただタロウの場合は世の中ではなく自分に何かが欠落していると思っているから、肯定ではなく、否定の言葉で応対したと。

 

扶養人の陣が団地住まいのサラリーマンという、至って平凡な肩書の人間であったことも手伝ったのかは知りませんが、他の人間よりも出来るタロウだからこそ、何かを成し遂げる喜びも味わえない「欠落」を理解していた筈で、自分では味わえない喜びを、他人の望みを叶えることで追体験しようとしたものの、パーフェクトにこなす自分のレベルを基準にゴールを定めてしまうので、関わった人間は嫌になってタロウを遠ざけてしまう。そうやって普通の人間から遠ざけられることで、タロウは「欠落」を埋められず、それ故に普通の人間に対して、ある種の憧れと恐れを抱くようになったと。

 

憧れを抱きながらも「友達」を作らなかったのは、無意識のうちに自分と「普通の人」を違うものだと判断していたからで、普通の人間の傍に寄り添っても、自分との違いを自覚してしまい却って傷つくと思ったのかもしれません。そうやって普通の人との「距離」を自覚し、普通の人と違って友達がいない自分の異常さを自覚するのが怖かったので、物言わぬカブトムシを友達とし、その存在を仄めかされたら理性を失って探し回ると。

宅配の配達業の傍ら、「縁が出来た。困ったことがあれば言ってくれ。」と語り掛けるのは、友達にはなれなくても、どこかで普通の人と繋がっていたいという気持ちから来るものなのかもしれません。

 

そんな風に、他人との間に距離を作ってきたタロウですが、一緒に戦うことになったお供達はタロウを嫌うことなく彼のしごきについていこうとし、時に彼の窮地を救うべく奮闘した。ちょっと意志が強いけど、けして超人ではないし、人並みに我を忘れる時もあれば、人並みに不安に押しつぶされそうにもなる。そしてソノイという、自分に何かを教えてくれるような存在とも出会うことが出来た。勿論タロウより強くはないかもしれないけど、「凄い」人達であることに変わりはない。

今回誕生日パーティを開いてもらってことで、タロウはドンブラザーズの面々と紡いできた絆が、戦士ドンモモタロウに対するそれではなく、皆と同じように誕生日を持ち、この世に生を受けた桃井タロウという一個人に紡がれたものであったことを改めて痛感したのでしょう。それは、自分が憧れた普通の人との接点であり、同時に自分を普通の人と同じように見てくれる誰かがいるということに気づいたということ。

嘘をつくと死ぬ体質は何時まで経っても治らないし、(役者業以外は)何でもできる存在であることに変わりはない。そんな自分を、はるかやソノイ達が「良い」と言ってくれるおかげで、タロウは「自分」というものをようやく自覚することが出来る。

 

欲を言うと、ソノニとソノザについては、「猿原達が祝うから」以上の動機が見えないので、もうちょっとタロウとの関係も掘り下げて欲しかったのですが、縁が縁を呼び、繋がり合って誰かを包む円になる的なことでいいのかな。

 

とにもかくにも、来週でおしまいです。「ドンブラザーズ」はどんな物語になるのかな。